キャンベル氏族(Clan Campbell)は、スコットランドのハイランド地方最大の氏族のひとつである。ゲール語で「ゆがんだ口」を意味するCaim Beulが語源ともいわれるが、論争の余地がある。
キャンベル氏族 | |
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Na Caimbeulaich | |
座右の銘 | Ne Obliviscaris 羅: Forget Not |
旗印 | Cruachan! |
概要 | |
地域 | ハイランド地方 |
地区 | アーガイル |
プラント・バッジ | ヤチヤナギ |
パイプ音楽 | The Campbells Are Coming |
氏族長 | |
最も高貴なトーキル | |
アーガイル公爵 ('MacCailein Mor') | |
拠点 | インヴァレリー城 |
過去の拠点 | キャンベル城 |
文書にキャンベルの名が最初に出てくるのは11世紀後半で、人物としては1230年代のアーチボルト・キャンベルの名が見られる。13世紀の末にはに勢力を持ち、イングランドとの戦争時にはロバート1世を支持した。独立戦争の軍功によっておおいに富をえて、1380年にナイトに叙された。その後も着実に頭角をあらわしてゆき、1457年にはアーガイル(伯爵)の地位を得た。17世紀にはアーガイル侯アーチボルト・キャンベルなど有力者を輩出し、スコットランドにおける最大の家門の1つとなった。
清教徒革命ではアーガイル侯はオリバー・クロムウェルを支持したが、王政復古後に断頭台に送られ処刑された。息子のアーチボルド・キャンベルは1685年にモンマス公ジェイムズ・スコットと組んで反乱を起こし(モンマスの反乱)、敗れて処刑されるも、孫のアーチボルド・キャンベルは公爵に昇格、第2代アーガイル公ジョン・キャンベルは1715年のジャコバイトの反乱鎮圧に参加して1719年にはグリニッジ公爵に叙せられ、1745年のジャコバイトの再度の反乱において第3代アーガイル公は政府軍に加わって参戦した。
キャンベル城は当初ステュアート家のものだったが、ステュアート家と婚姻関係を結んで下賜され、1489年にキャンベル城と名を改めた。清教徒革命でモントローズ侯ジェイムズ・グラハムはキャンベル城を攻めたが落とせず、逆に捕らえられ処刑された。王政復古後キャンベル城は燃やされたが、その後再建されキャンベル氏族の象徴となった。1948年、スコットランド歴史協会によって国有化されている。
脚注
- ^ Mac an Tàilleir, Iain. “Ainmean Pearsanta” (docx). . 15 October 2009閲覧。
関連項目
- アーガイル公爵
- グレンコーの虐殺
- ダグラス・マッカーサー
外部リンク
- The Clan Campbell Society(英語)
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