クリフトン・アルバート・フレデリック・スプレイグ(Clifton Albert Frederick Sprague、1896年1月8日 - 1955年4月11日)は、アメリカ合衆国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。「ジギー」と渾名された。
クリフトン・スプレイグ Clifton Albert Frederick Sprague | |
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渾名 | ジギー(Ziggy) |
生誕 | 1896年1月8日 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州 ドーチェスター |
死没 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州 サンディエゴ | 1955年4月11日(59歳没)
所属組織 | アメリカ海軍 |
軍歴 | 1917 - 1951 |
最終階級 | 海軍中将 |
指揮 | 第17海軍管区司令官 第11海軍管区司令官 第12海軍管区司令官 第1統合任務部隊司令 77.4.3任務部隊司令 CV-17 ワスプ艦長 |
戦闘 | 第二次世界大戦 *レイテ沖海戦 |
経歴
スプレイグはマサチューセッツ州ドーチェスターで生まれ、ボストン・ラテン・スクール、アメリカ海軍兵学校に学ぶ。卒業後は海軍のパイロットとなる。
第二次世界大戦が始まったとき、スプレイグは水上機母艦(USS Tangier, AV-8)の艦長の任にあり、真珠湾攻撃に遭遇した。その後スプレイグは空母ワスプ艦長に着任する。
スプレイグはレイテ沖海戦での功績で最も有名である。同海戦において、スプレイグは上陸支援のため第7艦隊から編成された3つの護衛空母艦隊の内の一つ(「タフィー3 Taffy 3」の愛称で知られる)を指揮した。
スプレイグは、戦艦多数・巡洋艦多数で構成された日本海軍の主力部隊(指揮官:栗田健男中将)との水上戦((サマール沖海戦))を戦い、護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦2隻を失ったものの、日本艦隊に大きな損害を与えた。
サマール沖海戦の終結直後、タフィー3は、日本海軍の最初の特別攻撃隊(指揮官:関行男大尉)の攻撃を受け、護衛空母セント・ローを失った。
スプレイグは、レイテ沖海戦における功績で海軍十字章を受章した。第二次世界大戦の終結の6年後、1951年11月1日付で海軍中将に進級すると同時に願いに依り現役を退いた。
スプレイグはサンディエゴの海軍病院にて心臓病で1955年4月11日に死去した。カリフォルニア州に埋葬されている。
オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートの10番艦、クリフトン・スプレイグ (USS Clifton Sprague, FFG-16) はスプレイグにちなんで命名された。クリフトン・スプレイグの士官室には、同艦の就役期間を通じ、スプレイグに授与された海軍十字章の表彰状が飾られていた。
外部リンク
- The Battle Off Samar - Taffy III at Leyte Gulf by Robert Jon Cox
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